朝の光が差し込むキッチン。
窓辺に、あの銀色の猫——レイラはいなかった。
代わりに、いつの間にか椅子の上に丸くなっている猫がいた。
ブルーグレーの短い毛。どっしりとした体。
銅色の瞳が、こちらをじっと見ている。
物静かだけれど、どこか食いしん坊そうな目。
「あなたも、どこかに連れて行ってくれるの?」
猫はゆっくりと立ち上がり、窓の方を向いた。
潮の香りが、どこからか漂ってきた。
気がつくと、そこは港だった。
灰色の空の下、石造りの桟橋に漁船が並んでいる。
カモメが鳴き、波が船体を叩く。
空気は冷たくて湿っている。
でも、どこからか温かい香りが風に混じっている。
クレアが波止場を歩く。
漁師たちが「おはよう、クレア」と声をかける。
この猫は、ここでは顔なじみらしい。
港のすぐ裏に、小さなビストロがあった。
壁は海風で色褪せた水色。窓枠は白。
扉の横にチョークで「本日のビスク」と書いてある。
クレアが勝手口からするりと入っていく。
まるで自分の家のように。
中から、シェフの声が聞こえた。
「おう、クレア。今日もいい殻が入ったぞ」
キッチンに入ると、シェフが大きなザルいっぱいの
エビの殻を前にしていた。
赤みがかった、薄い殻。
身はもう取られて、空っぽ。
「これ、ゴミなんかじゃないんだよ」
シェフが殻をひとつ持ち上げて、鼻を近づけた。
「ここに、海の旨みが全部残ってるんだ」
——え? この殻に?
シェフが殻をフライパンに入れた。
バチバチと音がして、キッチンが一気に香りで満たされる。
海老の殻が焼ける匂い。
香ばしくて、甘くて、深い。
「ビスクの秘密はね、この殻なんだ」
シェフは手を止めずに話し続けた。
「昔、漁師たちが売り物にならない小さなエビを
殻ごと煮出して食べたのが始まりだ。
捨てるはずのものが、最高のスープになった」
炒めた殻に白ワインを注ぐ。
じゅわっと音がして、蒸気が立ちのぼる。
玉ねぎ、セロリ、ガーリック——ミルポワと呼ばれる
フランス料理の香味野菜を加えて、じっくり煮込む。
トマトを入れると、スープが美しいオレンジ色に変わった。
シェフがひとさじ味見して、うなずいた。
「今日のはいいな」
クレアが足元で、目を閉じて香りを吸い込んでいた。
スープをシノワ——目の細かい漉し器——で丁寧に漉す。
殻の破片を押しつぶすようにして、
最後の一滴まで旨みを搾り出す。
残ったのは、絹のようになめらかなスープ。
仕上げにクリームをひとまわし。
ホワイトペッパーをひと振り。
「これが、ビスクだよ」
器に注がれたスープは、
夕焼け色をした海そのものだった。
ひと口飲んで、言葉が出なかった。
海老の旨みが、舌の上でじわっと広がる。
クリームのまろやかさの奥に、
殻を焼いた時の香ばしさが隠れている。
ホワイトペッパーのピリッとした奥行き。
セロリと玉ねぎの甘み。
こんなに複雑なのに、するすると飲める。
海そのものを、スプーンですくっているような。
「おいしい……」
クレアがテーブルの上に飛び乗って、
器をのぞき込んだ。
午後、シェフに連れられて塩田を見に行った。
ブルターニュの南、ゲランドという町。
見渡す限りの、浅い水面。
「パリュディエ」と呼ばれる塩職人が、
長い木の道具で、水面の塩をそっとかき集めている。
「この塩田は千年以上続いているんだ」
風と太陽と海水だけで作る塩。
機械は使わない。手仕事だけ。
指先にのせてなめてみた。
しょっぱさの奥に、ほんのり甘みがある。
海のミネラルが、そのまま結晶になったような味。
日本に帰ってきた。
いつものキッチン。
でも、あのビスクの香りが忘れられない。
あの殻を炒めた時の、海の香ばしさ。
シノワで漉した、絹のようなスープ。
ゲランドの塩の、まるい甘さ。
「あの味を、もう一度——」
そして思い出した。
沖縄から届く「天使の海老」の殻のこと。
身を使ったあと、いつも捨てていた殻。
あのシェフの言葉が蘇る。
「ここに、海の旨みが全部残ってるんだ」
天使の海老の殻を丁寧にパウダーにした。
そしてテーブルに並べた。
セルファン——ゲランドの塩。
トマトパウダー。カシューナッツパウダー。
スモークドパプリカ。ガーリック。セロリ。
玉ねぎ。ホワイトペッパー。
あのビスクの味を思い出しながら、
少しずつ混ぜて、香りを確かめて。
殻を炒めた香ばしさは、スモークドパプリカで。
クリームのまろやかさは、カシューナッツで。
ゲランドの塩が、全体をやさしくまとめる。
「あ——これだ」
ブルターニュのビストロとは違う。
でも、あの港の空気が、ふわっと戻ってくる。
今日の晩ごはんは、クリームパスタ。
いつもならコンソメと塩だけ。
でも今日は、あのシーズニングをひとふり。
鍋から立ちのぼった香りに、息を飲んだ。
「……ブルターニュだ」
海老の殻の深い旨み。
スモークドパプリカの香ばしさ。
クリームと混ざったゲランドの塩の甘み。
キッチンが一瞬、あの港町のビストロになった。
食べてみた。
パスタに絡んだクリームソースの中に、
海老の旨みがぎゅっと凝縮されている。
カシューナッツのまろやかさが、
クリームとは違う、やさしいコクを加えている。
トマトのほのかな酸味。スモークドパプリカの余韻。
ブルターニュのビスクのコピーじゃない。
日本のキッチンだから出せる、新しい味。
「おいしい。これ、海のシーズニングだ」
窓辺に、クレアがいた。
いつの間にか戻ってきていた。
夕日に照らされたブルーグレーの毛が、
海の色に光っている。
「また連れて行ってくれるの?」
クレアはゆっくりまばたきをした。
銅色の瞳に、波のきらめきが映っていた。
窓の外に、知らない港の気配がした。
次はどんな味に出会えるんだろう。
17世紀の漁師の知恵。ゲランド千年の塩。沖縄・天使の海老の殻。
捨てられるはずだったものが、最高の旨みになりました。
いつもの料理にひとふり。
あなたのキッチンが、海とつながります。